草思社から2021年9月に出た本で,500ページを超える分厚い本です.
あらすじ
まず本文の内容を(独断と偏見で)要約します.
問題意識
精神医学の本です.人類の心は精妙にできているようにみえますが,その一方で驚くほど脆弱でもあります.その証拠に,鬱や双極性障害といった精神疾患が広く見られます.決して起こらないことを心配し続けて消耗しているひともいます.
ここで一つの疑問がわいてきます.人類の心は,他の動物のあらゆる形質と同じように進化の過程で形成されてきたわけです.進化の過程では,ゲノムの利益が最大化されるように淘汰が働き,利益にならない形質は排除されていったはずです.それではなぜ人類の心には,精神疾患に対して脆弱にするような特徴が生き残っているのでしょうか?
この本は,そうした疑問を追求していく本です.
よくある疑問への回答
ここまで説明したところで,とくに誤解されやすいだろうなと思ったところを取り上げて先回りして回答を与えておこうと思います.
Q. つまり精神疾患にも役に立つ部分があるということかな?
違います.疾患そのものは適応的ではありません.そうではなくて,「疾患に対して脆弱にするような遺伝子が生き残ったのはなぜか?」がここで問題になっていることです.
具体例を挙げると,鎌状赤血球による貧血にはメリットなどありませんが,それを引き起こす遺伝子にはマラリアを防ぐという大きなメリットがありますね.
Q. 進化的なアプローチは臨床でどのように応用できるの?
断言はできませんが,精神疾患の原因について新たな示唆が得られるのではないかと期待されています.
具体例を挙げます.咳や発熱は病原体に対する防衛反応ですが,もしも「防衛反応である」ことを知らなければどうなるでしょうか.「咳が出る原因は,きっと咳をつかさどる脳の部位に異常があるからに違いない!」という誤った推論に導かれてしまいがちになります.防衛反応であることを知っていれば,きっと何かの感染症の症状なのだろうなと察しがつけられます.この違いは大きいです.
実際,この例はそれほどばかげたものではありません.「鬱は脳の病気で,不安をつかさどる脳の部位に異常があるのだ」という仮説は巷では人気がありますが,実は確たる証拠があるわけではないのです.もしかしたら鬱は防衛反応の一種で,「鬱は脳の病気」というのは「咳が出る病気は脳の咳中枢に問題があるから起こる」というくらいバカげたことを言っているのかもしれません.
結論,または研究課題
では,結論はなんでしょうか.進化論を精神医学に持ち込もうという試みはまだ始まったばかりですから,断言することはできません.しかし,いくつか仮説を出すことはできています.本文で挙げられたものをいくつか紹介します.
競走馬仮説
オーディオ機器というものは,高価なものほど壊れやすかったりします.安物のラジカセは元気なのに,その数十倍の値段の機械はちょっとしたことで鳴らなくなったりするそうです.良い音を出すことに能力を全振りした結果,脆弱性が生まれてしまうのでしょう.
競走馬でも同じことが言えます.脚の速い馬を選りすぐって育種した結果,サラブレッドは非常に高速で走ることができますが,しかし普通の馬よりも脚の骨を折るなどのケガをしやすくなっているそうです.
それと同様に,人間も高度な心理的機能を発達させた結果,能力に偏りが生じてしまったということはないでしょうか.つまり,精神疾患に対する脆弱性はトレードオフの結果生じたという説です.
不本意な降伏仮説
社会において,地位をめぐる争いで負けてしまったときに抑鬱が引き起こされるという現象があります.これはヒトに限らず,ニワトリなどでも観察できるものです.おそらく,その負けが受け入れられないときに限って起こるのでしょう.
そこで,抑鬱状態になり,自分を低く見せて能力を隠すことで,自分より地位の高いものに攻撃されないようにしているのではないかという仮説が立てられます.これは,多くのうつ病患者が,勝ち目のない地位争奪戦を諦めるとうつ病から回復するという観察によって支持されています.また,抑鬱に至るきっかけとなったライフイベントには屈辱的な経験が多いことからも裏付けられます.
崖型の適応度地形仮説
ひとが不安になる傾向性が遺伝的に決まっているものと仮定し,それを横軸に,適応度を縦軸にしたグラフを考えます.このグラフが平均を中心として左右対称になっておらず,ある点で急激に適応度が減少する「崖型」になっていたとしたら,進化の過程でその崖の中腹にあたる遺伝子が選ばれることになります.そうすると,崖なのでほんの少し遺伝的に逸脱しただけでも異常となるわけです.
この仮説により,精神疾患の有病率がそれなりに高い(1%くらいはある)ことの説明がつけられます.
総評
やめておくべきひとは?
この本を手に取るひとは,おそらく精神医学に興味があるひとでしょう.精神医学に興味を持ってる方というのは,精神疾患当事者か,その近親者かが多いと思いますが,しかしそういうひと向けの本ではないですね.救いになる本では全然ないです.
なぜかというと,「こうすれば治る」というアドバイスがほぼないからです.「なんでもするので治してください」という患者に対して,「ジムに契約して毎日運動をいっぱいしなさい」とアドバイスしたら治ったねやったね!みたいな話が少し載っている程度です.基本的には理論的興味しか満足させない本だと思います.
オススメしたいひとは?
逆にどういうひとにオススメかというと,「精神医学は進歩していて,いろんなことがわかってるんだ」と思ってる方にお勧め.逆説的ですけど,本書を読めば「なるほど!全然わかってなかったんだ!」という悟りが得られると思います.そんな悟り得たくないかもしれないですけど.
確かに臨床的には精神医学は(フロイトの時代と比べれば)とても大きく進歩しているのですけど,著者自身が繰り返し書いているように精神医学はいまだに症状と疾患を混同しているわけで,他の医学分野と比べるとその難航っぷりはやはり否めないですね.この本で提示された疑問に答えが出せれば,そんな状況も変わってくるかもしれないですが.
おおげさな言い方をすれば,精神医学の未来について語った本であるといえますかね….今後のこの分野の動向について考えたいひとにとっては,読む価値のある本であると思います.