文庫になったツァラトゥストラを購入した記念に、読み直しながらコメントする記事を書いてみます。(文庫版には Kindle 版がなくて引用に不便なので中公クラシックス版を引用します)
しかし独りになったとき、ツァラトゥストラはこう自分の心にむかって言った。「いったいこれはありうべきことだろうか。この老いた超俗の人が森にいて、まだあのことをなにも聞いていないとは。神は死んだ、ということを」
ニーチェ. ツァラトゥストラI (中公クラシックス) (p.53). 中央公論新社. Kindle 版.
ここで引用するのは、この場面。
冒頭、ツァラトゥストラ君(長いので今後ザラトス君とか適当に略します)が 10 年間引きこもっていた場所から出て、人々に語り掛けに行こうとする場面ですね。*1
「神は死んだ」というニーチェの有名なセリフが出てきます。ザラトス君が山を下って人々に会いに行こうとする途中で隠者に出会うんですが、そこで隠者の人が平気で「わしは神をたたえているんだぞい」などと口にするので、ザラトス君がドン引きして「こいつまじかよ」って言ってます。引用したのはそういう場面です。
「神は死んだ」というのは、訳注によれば「今まで支配的であった超越的理念が人間をみちびく力を失ってしまったこと」を意味します。*2 たとえば、今までは神が無条件に与えてくれていた「生きる意味」も自分で探さないといけないし、「死後の世界」や「審判」などの将来の安心を与えてくれる概念もガラガラと崩れ落ちてしまってる、ということですかね。
そういう、自己責任で放り出されちゃった寄る辺ない精神状況のことを「神は死んだ」という言葉でニーチェは表しているみたいです。だから特に、この言葉自体響きが良くてかっこいいけれども結論じゃなくて前提なんですよね。「神は死んだ!さよなら!!」という決め台詞では全然なくて「神は死んじゃった、これからどうしよう…?」という話なわけで。このあたり、本書をちゃんと読んでない人の中には勘違いしてる人もいるんじゃないかな。
